1986年9月24日 英国バーミンガム郊外のモースリーに生まれた
1903-1906 父親の経営する鋳物工場で働く
1906 バーミンガム大学医学部入学
ロンドンユニバーシティカレッジ病院でインターンとして学ぶ
1913 ユニバーシティカレッジ病院 救急医療担当として従事
院内の細菌学者と病理学者の助手として働く
腸内細菌と慢性疾患の関係性を発見
1914 第一次世界大戦勃発
虚弱体質により兵役を免れ英国に残留、医者として400人の傷病兵を担当しな
がら、腸内細菌の研究を続ける。その間の臨床結果、患者の精神の状態と回復するまでの期間との関連性を発見する
1917 突然の大量出血で意識不明となる
悪性腫瘍(癌)が見つかり緊急手術を受ける
余命3ヶ月を宣告され、残された生を理想の治療の実現に懸けることを決意する
まだ回復途上にも関わらず、自分の研究室に戻り、昼夜休まず、研究に没頭する
余命宣告の3ヶ月を過ぎてもまだ存命であった
1918 その年、英国内でのスペイン風邪(インフルエンザ)の流行に伴い、罹患兵にワクチンを投与するよう国から非公式で依頼された。国内の軍施設(キャンプ)は罹患兵の死亡率が高い中、彼の担当する3千人の兵全員が一人の死亡もなく、バッチのワクチンは大勢の命を救った。その後はユニバーシティカレッジ病院を辞め、自分の研究室を開き、細菌学者・病理学者としてロンドンホメオパシー病院に就任。
ホメオパシーの創始者、ハーネマンの著書と出合い、100年前のハーネマンの発見と自分の発見の「慢性疾患と腸内毒素の関連性」が一致していたことに驚き、大いにに勇気づけられた。またさらに、患者の症状を治療するのではなく、患者の全体性を治療するというハーネマンのホリスティックな考え方にも大変共感した。彼はホメオパシーの作り方を学び、これまでのワクチンを注射する方法から、ワクチンを口から摂取する経口ワクチンへと前進させた。バッチは多種類の腸内細菌を7つのグールプに分類し、それを基に経口ワクチンを製造し、それを研究した。その結果、7つの細菌グループは7つの明確に違うパーソナリティに符号することを発見した
1922-1928バッチはこれまでの成功で満足するようなことはなく、あくまでも自分の理想を追い求め、もっとピュアで苦痛のない経口ワクチンを作れるはずだと、植物の研究を続ける。その頃、患者の精神の状態と病気との関連性を観察していくうちに、症状そのものではなく、その患者の性格に照準を合わせてワクチンを選ぶことをし始める。
1928 フラワーレメディの最初の3種類、ミムラス・インパティエンス・クレマティスの発見
1930 バッチはこれまでの安定と名誉、功績を捨て、さらなる夢に向かう。ロンドンの研究室を閉じ、薬草となる植物を探し始める。パーソナリティと病気の関連性をさらに深く研究。レメディの作り方、太陽法と煮沸法の発見。新しいレメディ、バーベイン、チコリ、アグリモニー、セントリー、セラトー、スクレランサスの6種類を発見
1931 「Heal Thyself 汝自身を癒せ」を出版
新しいレメディ、ウォーターバイオレット、ロックローズ、ゲンチアナの3種類のを発見。全部で12種類になる。12というシンボリックな数字に、もう完成したと成したと思い込んで「ザ12ヒーラーズ」を出版。
1933 その後に新しい4種類、ゴース、オーク、ヘザー、ロックウォーターを発見。
1934 続いて、ワイルドオート、オリーブ、バインの3種類のレメディを発見。全部で19種類の発見となる
1934-1936 バッチ自身の闘病中に、あらたに19種類のレメディを発見
1936 全部で38種類のレメディの発見を最後に、彼の生涯をかけて探求してきた、誰でも安心して使えるピュアでシンプルなヒーリングシステムは、ようやく完璧なものとしてここに完成を迎えた。バッチはこのヒーリングシステムをシンプルのまま遺すために、混乱を起こす過去の研究資料(すでに刊行された出版物には手が及ばなかった)のすべてを焼却した。ヒーリングシステム完成後、英国国内での講演予定があった。1936年9月24日、2部に分かれた第一回目の講演を終えたが、それが結果的にバッチの最後の講演となった3ヶ月の余命宣告を受けた時から、実に19年が経過していた同年11月27日、バッチはもう二度と眠りから目覚めることはなかった。
医学博士、 外科医学士、 外科医、 内科医、 公衆衛生医学博士、細菌学者、
バッチフラワーレメディ創始者。